私の出身は愛知県津島市なのですが、弁護士になってからの就職先候補として訪れた豊橋が気に入り、豊橋の柴田法律特許事務所で弁護士としての1歩を踏み出しました。そしてすっかりこの町が気に入り、豊橋で独立開業しました。弁護士になってから15年以上経過し、豊橋は私にとって、第二の故郷のように思っています。
私は、勉強よりも身体を動かすことが好きで、特に野球とボウリングに熱中した時期がありました。ここで得た経験と人脈は、私の原動力の礎になっています。
ほろ苦い思い出ですが、良い人脈には恵まれました。例えば、高校を卒業して土方(土木工事)のアルバイトをしていた時の社長(幸雄さん)に、弁護士になって暫くしてからお目にかかった際、実は幸雄さんが藤中野球部の大先輩でキャプテンだったというお話から、キャプテン(リーダー)の心得「適材適所」と事業成功の秘訣「ヤ・ジ・カを守れ」(約束・時間・お金)を教えて頂きました。「適材適所」と「ヤ・ジ・カを守れ」が、私の指針となっています。
また、私の経歴は、少し変わっています。大学卒業後、29歳まで司法試験にトライしましたが、取組みが中途半端で合格に至らず、一度司法試験で挫折しました。
当時、両親の影響もあって、気分転換にボウリングのリーグ(大学のサークルのようなイメージ)に参加したり、大会(ゴルフのコンペのようなイメージ)でパーフェクト(300点)を達成したりしていたことから、ボウリング場に就職しました。
ボウリング場では、身近にいたプロボウラーに憧れたりもしましたが、アメリカのプロボウラーの高速かつ高回転の投球が日本のボウリング雑誌等で取り上げられるようになり(「ローダウン」投法と紹介されていましたが、和製英語のようで、アメリカに「ローダウン」投法という言葉はないそうです。)、私も雑誌の分解写真等を見て練習しましたが、分解写真(当時はYouTubeのような動画を見ることはできませんでした。)の真似をしても全然うまくいかず、結局ボウリングでも挫折しました。
司法試験でもボウリングでも挫折してから、大学の先輩の結婚式に出席した際、昔の受験仲間が次々と弁護士・裁判官・検察官になっているのを見て、司法試験に再度挑戦する決意をし、間もなくボウリング場を退職しました。32歳でした。
この時、はじめて司法試験の勉強に全力で取り組み、34歳で合格することができました。
二つの挫折とボウリング場での勤務は、ただの遠回りに思われるかもしれませんが、これらの挫折と民間企業での勤務こそ、私の財産です。ここで得られた経験と人脈は、私の原動力の礎になっています。
代表弁護士 | 飯田 稔 |
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所属弁護士会 | 愛知県弁護士会(登録番号:37469) |
経歴 |
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肩書 | 弁護士 愛知県弁護士会東三河支部民事介入暴力対策委員会委員長 |
著作等 | 公益財団法人愛知県暴力追放運動推進センター 不当要求防止責任者講習講師 |